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Elite コレクション
本物のお茶を伝える使命の真骨頂の作品です。
原料茶の基準は、「単一茶園、茶木の栽培は自然仕立て、茶摘みは一芯二葉を手摘み、製茶が手もみ」
「Elite」コレクションのラベルの色は「黄櫨染(こうろぜん)」。 日本伝統色の中でも最高位を象徴するお茶のシンボルカラーとして採用。 820年(弘仁11年)嵯峨天皇により、それまでの紫から改めて定められた、天皇のみに許された衣服の染め色。 天皇の位の象徴色として太陽の輝きを表し、光線で変化する『太陽の染』とも呼ばれます。 今上天皇が「即位の礼」でお召しになる金茶色の袍(ほう)の色でもあります。 日本に飲茶の記録が現れるのは、 815年(弘仁6年)に嵯峨天皇が近江(おうみ)国韓崎(今の当地、大津市唐崎)の梵釈寺に行幸したとき、 崇福寺の大僧都永忠(えいちゅう)が自ら茶を煎(せん)じて、天皇にさしあげた(「日本後紀」「類聚国史」)というのが最初です。
「茶」の定義とは
学術的に「茶」とは、1887 年植物学者クンツにより学名「カメリア・シネンシス(Camellia sinensis (L.) O.Kuntze) 」と命名された、 永年性の常緑樹であるツバキ科ツバキに属する「チャ(※作物名はカタカナ表記)」を原料として製茶したものに限られます。 一方、植物の葉などを乾燥し、湯で成分を浸出した飲み物を総じて「○○茶」と呼ぶ習慣がありますが、これらは学術的には「茶」ではありません。
¥50,000(税抜)
年間先着300本
伝統の宇治茶手もみ製茶法(宇治製法)について
京都府指定無形文化財の無形民俗文化財です。
元文3年(1738年)に宇治田原町の茶農だった永谷宗圓翁が青製煎茶製法を創案。それまでは、中国の流れを汲み、茶の芽を釜で炒って、ムシロの上で手足によって揉み、日光で乾燥させた、釜炒り茶といわれるものでした。翁は、この製法を改良し、ホイロで乾燥しながら手で揉む製茶法(青製煎茶製法)を開発。この茶は、従来の茶に比べて色沢香気ともに優良で、江戸をはじめ各地において評判を博しました。その後、多くの人々によって改良を加えながら、今日の手揉み宇治製法が完成。この手揉み製法が全国銘茶産地に広められ、現在各地で保存されている手揉み技術の大半は、宇治製法の流れを汲むものと思われています。
吉田家14代園主 故吉田喜三郎が保持していた玉露の手揉み製法は、この宇治製法を正しく受け継ぎ、更に技術改良を加えたものであります。昭和44年(1969年)3月3日宇治製法技術保存協会が結成され、翌年10月「宇治茶手揉み製法」が無形文化財に指定され、その保持者として吉田家14代園主 故吉田喜三郎が認定されました。また、平成13年(2001年)には宇治茶製法技術保存協会をはじめとする京都府内にある5つの保存会によって「京都府宇治茶製法手もみ技術保存会連絡会議」が結成され、京都府における「宇治茶手もみ製茶技術」の伝承・保存活動はさらに飛躍します。そして平成21年(2009年)には、こうした活動内容が京都府教育委員会から認められ、京都府指定無形文化財の無形民俗文化財にも指定をされました。
宇治茶の歴史と宇治茶一筋16代吉田家について
連綿と受け継がれてきた宇治茶の歴史、その元を辿れば京都栂ノ尾高山寺。今から1200年前、最澄と永忠が唐から帰国。唐風喫茶文化(煎茶法)伝来が記録に残ります。本格的な伝来は、約800年前、栄西により宋風喫茶文化(点茶法)伝来、宋(中国)から持ち帰られた茶の種子が、高山寺開祖・明恵へ分与され、栂ノ尾に 播種。明恵は、茶の功徳(効用)をあまた衆生へ伝えるべく、宇治やその他の地域に普及振興。播種の中でも、黄檗山万福寺の門前に分かち植えられたのが、宇治茶 の起源。宇治は地理的にも恵まれ、また先人の精進により日本茶の代名詞とまでなります。しかし時は流れ、人の好みも変遷、茶の本来の「阿留辺幾夜宇和(あるべ きようわ)」とは? 「阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)」とは、「今この時点で自分が成すべき事に最善を尽くす」という明恵の教えです。吉田家は、「その答えは茶の原点に帰るしかない」という使命から、明恵の教えを未来に引き継ぐべく、吉田家14代園主 故吉田喜三郎から日本最古の茶園(高山寺茶園)の肥培管理を高山寺より拝命。茶の本来の「阿留辺幾夜宇和」を探りつつ茶造りに精進しております。